hey are a small minority and many of them are second or third generation residents who have no ties to Korea.
Large numbers of them were originally brought to Japan as slave labor before and during World War II—although Japan’s revisionist historians prefer the term “conscripted” over “enslaved.”
2014/09/26
source:thedailybeast.com

彼ら(在日コリアン)は少数派であり、彼らの多くは、韓国へのつながりを持っていない2世、3世の世代の居住者である。そのうちの多数は、第二次世界大戦中やそれ以前に奴隷労働者として日本に連行された。日本の歴史修正主義者は「奴隷」より「徴用」という用語を好む云々などと主張されている。
記事の執筆者は作家としても活躍しているJake Adelstein氏。
twitter:jakeadelstein
しかし、外務省は戦時徴用で日本に留まった朝鮮人徴用者の数は1959年の調査で245人と発表している。

昭和34.7.13 朝日新聞
昭和34.7.13 朝日新聞

李承晩ライン「韓国・朝鮮と日本人」
第二次大戦後に起きた、「済州島四・三事件」などの迫害や朝鮮戦争から逃れるため大量の韓国人が日本に密航し、当時の日本では社会問題になっていた。なぜ彼らに日本での特別在留許可が与えられることになったのか。

李承晩ライン 「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房
日本が連合国占領下にあった期間は、いわゆるマッカーサー・ラインによって日本漁船の漁場は制限されていたのだが、講和条約を前にして、韓国政府はその撤廃にそなえ「李承晩ライン」(後に「平和線」と改称)を、その領海の外側に広範囲に設定した。その線以内は、水産物だけでなく天然資源も鉱物も、韓国が独占的に保護利用する権利を持つと宣言したのである。
翌53年には漁業資源保護法を制定し、李ライン内にはいった日本漁船は片端から拿捕されるに至った。
1955年11月には、韓国連合参謀本部は李ライン侵犯船に対する砲撃、撃沈を声明して、日本漁民をふるえあがらせた。1952年以降5年間で拿捕された日本漁船は152隻、抑留船員は2025人にも及んだのである。韓国沿岸漁業において、装備の秀れた日本漁船のために韓国漁民が圧迫されていたのは、日韓併合前からおこっていた問題である。
日本の植民地時代にも、1929年、総督府が李ラインよりは少し内側の公海上にトロール船などの禁止線をもうけ、内地の漁船を排除したこともあった。韓国政府が日本漁民に対して自国の漁民を守りたいと考えるのは理解できないこともないが、しかし一般日本人にとっては、李承晩ラインは”傍若無人と横車”の典型のように映ったのもまた無理からぬことであった。微力な日本政府は、韓国政府の、国際法を無視したこれらの行為に対してなんら為す術はなく、漁民は悲嘆にくれ、国民は遺恨の思いを心中につのらせた。
日本政府は抑留された漁船員を還してもらうために、本来は強制退去の対象者である在日朝鮮人の犯罪者472人を仮釈放して、在留特別許可を与えたのである。折から(1954年)おこった竹島(韓国名・独島)の所属をめぐる日韓交渉も、韓国側の無電台の設置、官憲の常駐という実力行使の前に、日本側は事実上沈黙させられた。これもまた韓国横暴の印象を日本人の中に植えつけたように思われる。

「李承晩ライン」問題解決にあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、本来は強制退去の対象者である犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を放免し、在留特別許可を与えた。
韓国政府は日本政府が摘発した密入国者、犯罪者等の強制送還を拒否し、日本国内で解放するよう要求するなど、人質を盾に日韓条約を韓国に有利な内容で締結させたとのことである。

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